- わが国の紡績業は明治政府の殖産興業政策により急速に発達し,その原料である綿花を廉価な海外綿花に求めた.調査の結果,印度綿花が優良であることが分かったが当時の日本/印度間の航路は英国のP & O Line他2社(*1)の同盟が独占しており運賃も割高であった.
明治26年(1893)に来日したボンベイ(孟買)の綿花豪商タタ(J. G.N. Tata)は日本郵船社長森岡昌純,澁澤榮一,淺野總一郎らに会見して日本/孟買間の航路開設の必要性を力説した.日本郵船は積荷保証が得られることを確認したうえでタタ商会と各1隻を提供して6週1回の定期航路の開設を決定した.
明治26年(1893)11月7日,第1船廣島丸がボンベイ向けに神戸を出航し,これがわが国最初の遠洋定期航路開設となった(*2)(*3).同盟側は運賃の値下げ等で対抗したが,日本郵船は国内では日本紡績連合会,海外ではタタ商会と連携して多大の損害を被りながらも航路の維持に努め,タタ商会撤退後は日本郵船が汽船2隻を補充して3週1回の定期を維持した.
そして明治28年(1895)11月に至りP & O Lineは英国外務省を通じて仲裁を申し入れ日本郵船は計画中の欧州航路開設も考慮したうえで,明治29年(1896)5月に同盟側と運賃合同計算契約を締結した.
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| 1893-10-28 |
(明26) |
第1回印綿運送契約締結
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| 1893-11-07 |
(明26) |
孟買向け第1船廣島丸が神戸を出航[港]{往航}神戸/下關/香港/シンガポール(新嘉坡)/コロンボ(古倫母)/ボンベイ(孟買){復航}ボンベイ(孟買)/コロンボ(古倫母)/シンガポール(新嘉坡)香港/上海/下關/(横濱) 注:チュチコリン,ペナン(彼南)臨時寄港[航]3週1回[船]廣島丸,他3隻(両社各2隻)
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| 1895-02 |
(明28) |
タタ商会撤退.日本郵船は汽船2隻を増配して3週1回の定期を維持,上海寄港を中止して上海浦鹽斯徳線を香港迄延長して本線と接続
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